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今だから話せる自分史

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hunter 2012-6-11 0:10
大袈裟なタイトルで「自分史」を書こうなんて思ったのは、
もう人生の半分を過ごし、既に齢50歳を越えるにあたり最近は健忘症に掛かったかの如く、昼に食べたメニューまで忘れる始末。「こりゃぁイケン!」「一生懸命思い出そう!」である。
職場で「生涯学習と言うテーマ」を担当し多くの方々の生き様を見たこともあって、残された半生(?)を有意義に活きる為にも、これまで過ごしてきた半生の記憶をたどり思い出せる限り残すことにした。
良かったこと、悪かったこと、辛かったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、そして家族のこと、友達のこと、そして趣味や仕事のことまで一片の紛れも無くそれぞれの思いを綴って書きました。
従って多少の時系列の違いはあるかも知れないが、ほぼ間違いの無い「自分史」である。

幼少から小学校の頃

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hunter 2012-6-10 23:50
昭和24年1月:岐阜県各務原市(旧:稲羽郡)にて、父弘明と母とき子の長男として誕生。
 古市場と言う農業を営む村落で,家の前には、木曽川の支流大安寺川と言う小川が流れ夏にはホタルが飛び交い、のどかな農村地帯でスクスクと育った様である。家業の為に4歳の頃、隣の集落南町に移り住んだが、ここはまさしく風光明媚な所であって、木曽川が流れ、国宝「犬山城(別名白帝城)」を望む素晴らしい景観の地であった。大正14年に架かった全国的にも珍しい鉄道と一般道路の併設橋「犬山橋」の北詰に居を構えて、40年以上もここに住み着いた。一寸隣町に引っ越ししただけだが雲泥の差の如く、家の前には国道が走り、自動車も通るし電車も走るし多くの観光客も通るしで、それは田舎から大都会に移り住んだような感じであった。難を言えば、学校が遠くなったことと騒音であった。昼間は電車と、車、そして物見遊山の観光客の声、そして夜は飛騨地方から名古屋方面へ走る木材を積んだ大型トラックや長距離トラックの騒がしい音と地響きが朝方まで続くことであった。が、「住めば都」私の順応性は高く直ぐに慣れてしまった様である。学校までの距離は徒歩で30分程度であったが、家から少し歩けばもう田圃や畑で「都会っ子」と「田舎っ子」の両面の良さを見て育ったのである。
新しく住み着いたこの地には昔からの住人は殆どなく、ご近所と言えば移転者ばかりで、それもこの風光明媚な場所を活かしての商売人が殆どだった。酒屋さん、髪結いさん、芸者置き屋さん、一杯飲み屋さんと言った具合であった。
父親の職業は「下駄製造職人」で、ご多分に漏れず、この観光街での利点を活かして旅館の下駄を一手に引き受け、お客さん用の下駄製造、板場さんの高下駄の製造とメンテナンス(歯と鼻緒のすげ替え)、そして家に近い国鉄鵜沼駅の構内に資材置き場を持って下駄の製造卸を行っていた。(名古屋方面まで手広く製造卸をしていた様である)
この時代の下駄職人は結構「花形」と言うか時流に乗った仕事の様で、親父にも弟子が3人程いて、自分の技術を教え込んでいた事を記憶している。この町内でも弟子まで持って手広く仕事をしていたのは少なく、稼ぎも良かったようで文字通り裕福な家庭の子として育っていた。(所謂「お坊ちゃん」であった)
近所には、年下が1人もいなくて遊ぶことに関しては、以前に住んでいた部落の子供と、そして近所のお兄さんばかりでした。
昔から良く言われる「長男の甚六」的な部分と、悪戯好きの少しおませな部分を併せ持った子供としてスクスクと育っていた。
小学校では何故か多くの遊び友達ができて見る見るうちに「ガキ大将」である。成人した今でもそうだと思っているが人一倍正義感が強く、友達の喧嘩を買っては隣町まで出かけたりした思い出が有る。
一度喧嘩をすると直ぐに仲良しになって、またもや徒党を組んで喧嘩旅である。そんなことから犬山橋を越えて愛知県側迄多くの友達と現在でもお付き合いがあるのは嬉しい。

ところが世の中そんなに甘くはない。順風漫歩に見えた生活は一変した。
私が小学校3年生頃、気丈な父親であったが突然原因不明の病気で病に倒れ七年間も仕事に付けなかった。
修行中の弟子は辞めてしまうし、工場はストップ。事実上の倒産である。借金こそなかった様であるが一転して貧乏のどん底に陥った。道路に面した部屋を改造してかろうじて有った下駄の在庫を並べて商店に鞍替え、父は店番をし母親は行商の生活をして何とか生活をしのいできた。長く旅館街の下駄の世話やら板場さんの下駄のメンテを行って来た信頼だけが唯一の食いぶちとなっていたが、もはや余裕なんて生活では無くなってしまった。二階建ての我が家の二階を他人に賃貸し、一階の小さな部屋で家族5人が寝食をすると言う有様であった。
生活が変わるとともに自分の性格も暗くなってしまい、いつの頃だったか通信簿に「劣等感が強い」なんて書かれてしまった。
そんな中でも、父親が病で気力が無い頃であったが、お店が暇なとき(殆ど暇だったが)画板を持って良く写生に連れて行ってくれた。勿論お金もないので、いつも犬山橋の上かその近辺ばかりで有ったが父の描く絵は本当に上手だった。
(職人気質というのか、絵を描かせても上手だった。)
このお陰で、私の絵心は進んだようで、以降、どんな絵画コンクールでも入選でした。
(いつも「犬山城」を描いていたので目をつむってでも描けたので、宿題の絵も平気の平左であった。)

学校の成績もまずまずの様であったが、それ以上に多くの友達がいたので最終学年には「副生徒会長」を務めたし、学芸会では主役を演じた。(孫悟空の役回りで、顔にべたべたと絵の具で色を付けての事だったので、ひょっとすると、皆がイヤで担任の先生とグルになって私を煽てて役を振ったのかも・・・・・。)


記憶をたどってみれば・・・?

小学校の帰りに大安寺川で皆と一緒にパンツを脱いで洗濯をして乾くまで待って家に帰ったため随分と家族に心配をかけた。
市内の西町と言う部落の山手にあった池に行って、蓮の花を取ろうとしてなかなか採れずに帰宅が遅く、まして行方も告げずに鉄砲玉の状態で家族に心配をかけた。(一緒に遊んだ友達も帰宅して、私同様家族に随分と叱られたようである。)
犬山橋を渡って、ワルガキ友達とザリガニ採りに狂奔。すり鉢状の池で足を滑らして、もがけばもがくほど水に沈んで死ぬかと思った。(この時は近くにいたおじさんに助けて貰ったような記憶である。)

近隣に「花子おばちゃん」と言う、とても良く可愛がって貰った方が居て、{ブーちょうだい!}と日参してはお茶を頂いていたが、ある日こともあろうにこの家には昔ながらの井戸が有って猫が井戸の淵で座って居眠りをしていた。一寸触ったら誤って猫が井戸に真っ逆さま。
(これは不慮の事故で虐待では無いが、事の重大さに自分も真っ青。この井戸はそのまま使われなくなってしまった。)
もう一つ、この花子さんが洗濯板を使って衣類を洗っていて目を離した瞬間、予め用意しておいた砂利を洗濯桶に放り込んで迷惑をかけてしまった。(一寸度が過ぎた悪さと反省!)

当時流行のホッピングを抱えて犬山側に遊びに行き、得意満面に飛び跳ねていたがバランスを崩して、お土産屋さんの大きな一枚ガラスに突っ込んで、怪我こそ無かったが友人の家で罰が悪かった。(後で父親が弁償したようである)

保育園か小学校低学年だったが、隣の一杯飲み屋で客が残したビールを「勿体ない!」と初めて飲んだ。
(どんな味だったかは覚えていないが結構な量を飲んだようである。酔っぱらったかどうかは記憶にはないのであるが・・・・・・・。我が家の家系か?殆どお酒に強いので、どうもここで「お酒」に芽生えたのかも知れない。)

音楽では、周りが大きなお兄さんばかりで吹奏楽部に属するお兄さんが持ち帰ったサクソフォンを初めて吹いた。そして初めてまともに聴いた吹奏楽コンクールのテープ。ヴェルディの「運命の力」、これはとても印象的であったし、とても感動して聴いたのを今でも昨日のように覚えている。
その他に、同じくヴェルディの「椿姫第三幕への前奏曲」、そして作曲者は不明だが「甦る民族」。
(これが、後に音楽の道に進むキッカケとなったようだ)

何が原因かは、はっきりと記憶は無いが父親に凄く怒られ裏庭にあった柿の木に深夜まで縛り付けられ、母親の懇願でようやく解き放ってもらった事があった。

中学から高校の頃

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hunter 2012-6-10 22:10
中学に入学しても余り「今日から中学生!」の変化はそんなに感じなかった。何故かと言えば小学校と中学校が隣に並んでいて通学路も一緒、お付き合いの友達も一緒だったからである。変わったのは先生と教科書だけであったからである。
1年の時の担任が女の先生で愛子と言う名前の先生だったので、時の流行歌手の守屋ひろしのヒットソングの歌詞で「愛ちゃんは太郎の嫁になる.....」から、誰と無く担任のあだなを「愛ちゃん」と付けて呼んでいた。
クラブ活動であるが、文化系では合唱部しかなくて女の子ばかりだったので、運動神経の鈍い自分で有ったが運動系のクラブに決めて、最初は卓球部に入部したが毎日毎日来る日も来る日もラケット振りばかりで嫌気がさして一ヶ月ほどで退部して次にハンドボール部に入った。県内でも常に上位の成績を誇るクラブで何か活気が感じられて毎日の「うさぎ跳び」も苦にならずに1年生の終わりには県の選抜大会のメンバーとして遠征試合にも選手として出場したし、愛知県の学校からも良く対抗試合の申込が有り、何と言っても格好良かったので長続きしていた。
3年生になる直前に、もう一つの市内の学校が統合されて学校生活に大異変が起きた。
先ず第一に学校が遠くなって、初めての電車通学となった。学校の始まる時間は変わらないので早起きをしての通学である。
家から歩いて「新鵜沼駅」から乗車、2区離れた「羽場」と言う駅で降りて徒歩15分であったが、この新しい学校は山を切り開いて建てられた学校で、通学路の途中から上り坂で結構きつかった。
それよりも大変だったのは、二つの学校の統合であったため生徒間では、どうしても小学校の時からの仲間意識が強く互いによそ者の様な雰囲気が暫く続いたことであった。
しかし自分の順応性が高いのか、いつ頃からか遊ぶ友達も増えるに従って自分の行動範囲も広くなった。(悪ガキであった事も、或いは幸だったのかも........。)
この中学校統合に依って一気に3年生だけで8クラス400人。進学の渦に有って毎回毎回テストの成績を廊下に掲示されるのが嫌だった。(テストだって時の運が有るのに毎回テストの成績結果を個人名で順位を掲示されるのは本当に嫌だった)
丁度この年に「岐阜国体」の準備の為に式典音楽吹奏の為に、管楽器が県から配られ「吹奏楽部」ができた。3年生でもあったが直ぐに入部してサクソフォンを担当させて貰ったが、高校進学の大変な時との理由から知らない内に退部だった。この時の顧問が素晴らしい先生で、後に小学校に転任後、定年を待たずに政治の道に入られ衆議院議員になられた方である。
学業の方は、現在と違って相当記憶力が高かったのか、そんなに勉強もしないでもまずまずであったので、その分遊ぶ事に専念。愛知県の方の友達も多くなって何故か年上の人との付き合いが多く、この頃は吹奏楽で全国的にも有名だった東邦高校のメンバーと一緒に遊んでいた。
ステレオを買って貰った人がいて、その家に行っては良く聴かせて貰ったが個人の趣味かやたらと映画音楽が多かった。決して嫌でもなく自分自身も映画音楽が段々と好きになって行った時期でもある。

高校進学に付いては、担任は美術か音楽方面へと薦めてくれたのだが、未だ家も生活が楽で無かった事と「下駄職人」の父親には、音楽・美術に付いて趣味の世界の意識が強く「道楽で学校へ行かせるのではないぞ」と言われ、子供ながらに妥協点を見つけ県立の普通科にと決めた。後述するが進学のための勉強が嫌だったので、ろくに勉強もせず入学試験のテスト会場の待合いの体育館で教科書を隅から隅まで丸暗記しただけであったが無事に合格。

加納高校と言って旧制第二中学校と加納高等女学校とが合併した学校で、普通科、美術家、音楽科の学校であった。そんな経緯の学校であったためか、県内でも今で言う「開かれた学校」風で、進学・進学で追い込まない学校であったので女生徒が雪崩れ込み、何と男子生徒は10%程度で成績も上位は全て女生徒で占められていた。

この高校を選んだ理由の一つにはクラブであるが、ハンドボール部は全国のベスト8に数えられる強いチームだったのでこのクラブに入部を密かに考えていた。入学式を終えて随分立ってもクラブの紹介などの案内が無い時期で若干イライラしていた時に、校舎の遠くから楽器の音が聞こえて、ついついフラ~!っと覗いた所、丁度サクソフォンが余っていると言われてそのまま初心のハンドボールを捨てて、吹奏楽部に入ってしまった。
(これが、音楽を生業の世界にのめり込むことになろうとは.......!。)
勢いよく吹奏楽クラブに入部したものの、先ず困ったことに「楽譜」なるものが全く読めず、先輩の女性の隣に座って同じ音を聞き分けて演奏をしていた。(今、思い返すと大胆にもよく演奏をしていたと思う)
同時に入部した仲間は「楽譜」を読めていたんだろうか?
そして、退部することもなく2年生になり、やがて後輩が入部してきた。こともあろうにサクソフォンに1人!
これが、結構演奏できるので、内心穏やかでは無かったが「後輩は2番アルトを吹きなさい」と先輩面をして自分はメロディの多い1番アルトを担当した。この時点でも未だ「楽譜」がどうも理解できなかったが1番のパートはメロディーが多いので何とか聞き覚えで演奏は出来たわけで何とか先輩の面目は立っていたようである。

そうして迎えた「吹奏楽コンクール」自由曲は名曲「カバレリアルスティカーナ」。
学校から市バスに乗り込み日頃の練習の成果を期待してコンクール会場へ、そして演奏も終わり、いよいよ審査の発表であった。(こんな素晴らしい名曲を演奏したのだしメンバーには音楽科の生徒も混じっている。当然の事ながら優勝か準優勝位の良い成績しか頭の中には無かった!)
そして審査発表を聞いて愕然とした。何と成績は、11位であった。それも当時は岐阜県内に高校吹奏楽部の少なかった事もあるが、参加校は11校であった。つまり最下位の成績だったのある。クラブの仲間はガックリして放心状態!(そりゃぁ~暑い中を例え夏休みでも、この日の為に、この曲ばかり練習をしてきたのだから当然と言えば当然の事であった。)
先輩達は、このコンクールと秋の文化祭の舞台を最後に引退である。今でこそコンクールの成績は、金賞、銀賞、銅賞などの表現になっているが、当時は○○位とシビアな表現であったから「11位、最下位」は相当ショックだったようである。
(現在では、教育的配慮からか「金賞・銀賞・銅賞」と言う表現に変わってはいるが、スポーツ系の審査の様に、はっきりと得点で順位が決まる訳では無いので辛い部分が多い。「音」「音楽」を評価するのだから審査する側も大変であるが、審査される側も複雑な思いが残るのも事実。)
帰路のバスの中では、色んな話が出ていた「あの学校より上手だったのに.....」とかである。
元来、負けず嫌いだったし強面だった私が「来年は自分が棒を振る!文句は無いな!」と言ってしまった。
狭いバスの中での事であったし、誰も文句は付けなかった。
そして、秋から私が指揮者となったのであるが、なんとこの時点でも依然として「楽譜」が読めなかったのである。
しかし必死になれば何とか為るもので、指揮棒を振りながら出てくる音と、スコア(総譜)とにらめっこの内にだんだんと「楽譜」がおぼろげながら理解できるようになってきた。
もちろん多少の素地はあった。この夏に群馬県で開催された「榛名ミュージックキャンプ」に県内から4名参加した内の1人であって「楽譜が読みたい!書きたい!」から「編曲コース」を選択して多少の勉強はしていたのである。
専攻楽器はサクソフォンで講師は石渡先生。編曲の講師は兼田先生だった。
晴れて指揮者になって、上述の様に「楽譜」と「音」の結びつきが何とか理解できる様になってからは「編曲」にとりつかれ、先ずはレコードコピーから始まった。
最初にコピーしたのが、グレンミラー楽団の「茶色の小瓶」、そしてペレスブラード楽団の「或る恋の物語」。
友人からレコードを借りて、ようやく我が家にも購入できたステレオで何度も聴き返してはコピーをした。
(友人のレコードは、おそらく使い物に為らなくなったと思う。何度となくレコード針を通したのだから......)
そのスコアは後に誰だったかエレクトーンの講師に渡してしまって手元に無いが「我ながら.....」の出来映えだった。
そして3年生になってまたもや大騒動!何と教員異動で、当時吹奏楽実力校の指導者であった先生が我が校に赴任されて見えたのである。この先生はヴァイオリンを演奏される方で吹奏楽指導も一級のベテラン先生。
誰が今年のコンクールで指揮をするかでクラブは真っ二つ状態だったが、最終的に学生指揮の伝統校でもあった事もあり、私が棒を振ることなった。(棒を振ったのでは無く指揮者となったのである)
課題曲は「吹奏楽の為の小狂詩曲」、自由曲の選択で紆余曲折は有ったが、我を通して「運命の力」にした。
この曲は、当時全国大会レベルの難曲であったが部員の中に6人ほど私も含めて「音楽馬鹿」が揃っていて、
毎日練習が終わると近くの「焼きそば屋」にたむろして意見を出し合うなどの凄い結束力であった。
そして迎えたコンクールでは、2位を受賞できた。
もっと簡単な曲を奨めて頂いた経緯もあるが、この難曲をこなしただけで一片の悔いもなかった。
(この時のメンバーとは今でもお付き合いが続いているし、何と音楽業界に進んだ者が4名もいる)

コンクールが終えて「文化祭」。
この年は学校創立50周年とあって盛大に行われた。女優「岩下志麻」のご主人で映画監督の篠田監督が我が校の卒業生であり、彼も来校された。(旦那より奥さんの方が良いな~と思ったが......)
吹奏楽部では、ゲスト指揮に故・石上禮男氏(今夏2001年8月2日永眠)、クラリネットに小松孝文氏(元名フィル主席奏者,現名古屋芸術大学教授)を招いて、ウェーバーの「クラリネット協奏曲」の伴奏をさせていただいた。他に、石上氏の編曲「ウナセラディ東京」を自身で指揮いただいた。
他に音楽科の生徒だった石原朱美さん(現ヤマハ音楽振興会指導スタッフ)の歌と私の編曲「君といつまでも」を共演した記憶がある。
(石上氏には、ことのほかお世話になり、志半ばにして他界された事、非常に残念でならない。心より哀悼の意を表するものである。)

さて、こうして「文化祭」が終了すると、三年生はイヤでもクラブから放り出されて、進学指導の先生やら両親にやいのやいのと追いまくられて、残り少ない高校生活をただひたすら大学受験に向かっているのが普通で、わたしとて、この受験地獄の想い出を書きたいところだが全く思い出せないのである。
答えは簡単!。とうの昔に大学進学を諦めてただただひたすらにクラブ活動に専念していたので「受験地獄」なんて記憶は、私の人生では全くないのである。(正確に言えば、大学進学するだけの能力が無かったのであるが.........。)
(そんな事もあって私の子供2人に対しても、私自身は子供を受験で追い込んだりした記憶は全く無い。子供が自己の能力に併せて好きな学校へ行けば良いと思っていた。ただ、山の神は「お父さんは心配でないの!無責任な父親!」とかギャーギャーとほざいていたが、学校(特に大学)・教育と言う観点からすれば、元来、大学は研究機関であり、専門性の高い知識や技術を学ぶならいざ知らず、普通に、普通の大学へ行くのなら学校を、そんなに選ぶ必要は無いと思っていたからである。確かに現在の日本での社会では学閥とか色々あって、少しでも良い学校を卒業、そして憂慮企業(イケネー間違えた!)有料(あっ!これも間違い!キーボードからの日本語変換は色々と変換するから、ついつい不都合も起きやすい!)優良企業(これで正解!)に入社させてと思うのが世の親の願い。ただこれで良いのだろうか?と疑問をいつも感じている。糞の蓋にもならないのが結構いるものである。そんな事で、私の子供に対する接し方は少々違うかも知れない。娘も息子も自由奔放に生きさせてきたつもりである。ただ唯一父親として厳しくしたのは、家族や祖父母、そしてご近所の方々、そして目上の方々に対する言葉遣い!この1点だけである。親に対する感謝、世間に対する感謝、季節の恵に対する感謝、こう言った一番大切なことを、子供にたいしては小さいときから厳しく躾をしてきたし、今でもそれは変わらない!。そんな事から親馬鹿と思われるかも知れないが我が家の経済破綻を起こさない限りの範囲で子供には自由にさせてきた。決して物を買い与えたりとかではない!息子がいきなり関西の高校へ行きたいと言い出した為、無理をしてでも関西の高校へ、そして大学は関東である。お陰様と言うか夏休み、春休みなどの我が家は学生の合宿所のようになって、女房がかいがいしく学生の世話をしたりしているが、これも見ていて楽しいものである。)

一寸、横道に逸れたが、「文化祭」を終えた後の私には、全くと言って良いほど、これと言った記憶が無い!
「倶楽部=命!」のようにクラブ活動にのめり込んでいたのであるから、これもやむを得ないことであるが...........。
唯一であるが、鮮明に記憶に残っている事がある。
終戦前夜ならぬ、卒業試験前日から卒業式を迎えるまでの間、ひとつだけ忌まわしい出来事があって、その記憶だけは今でもはっきりと覚えている。それは次の「記憶をたどってみれば...?」に書くことにする。

記憶をたどってみれば ・ ・ ・ ?

まずは、中学校のころであるが、マンモス学校に電車通学となった事は前述のとおりであるが、成績は1学年400人中の3%以内をいつもキープしていた。これといって頑張った記憶もないが、どうしてもベスト10にはいなかった。毎回毎回テストの後に廊下に張り出される順位表。(それも大きな字で書きおって....)見るだけで腹立たしかった。
それもその筈、テストの前になると教科書丸暗記だけだったから応用問題でいつもしくじるのである。
でも自分ながら感心することがある。(よく一夜漬けなんて言われるが、一旦記憶すると殆ど忘れないという天性的なところがある。このお陰で高校受験もそうであるが一夜漬けで十分であった。今では執念深い!に変わってるかも.......!)
そんな訳で、特別に勉強するわけでもなく、まだこの時代は中学校を卒業して就職という生徒が結構多かったので、もっぱらそんな友人と遊ぶのに忙しかったのである。


今であれば、大変なことであるが随分と横着な事をしていた。(また、それを許される風潮が大人の中にも有った良き時代でもあった。)
友達と徒党を組んでやった事。何と!それは泥棒である。(決して貧困から来るものではなく、とてもスリルがあって面白かったのである。)
田舎の事であるから畑、一寸山に入ってのことである。(栗、桃、松茸、西瓜である。今思い出しても傑作なネズミ小僧集団だった)
何と言っても手口が面白い!今の子供達には決して経験できない事である!(ファミコンやプレステでは味わえない面白さがあった!ざま~見ろ!って言いたいが、その時代にはその時代の子供の遊び方があって仕方のない事だろう。でも、今でも鮮明に記憶に残るほどの何か大切なものがあったのだろう.........。)

手口を紹介しよう!

先ず「栗」であるが、これは少々悪知恵が必要だった。見張りを数人立たせて於いて木登りの上手な配下に登らせる。
栗はご存じのようにイガイガがあって、これが面倒!それならばと子供乍らに考えて、栗を採る役は革手袋を使用するのである。
けっして木から栗の固まりを落とさないで、栗を掴むやイガイガの上から革手袋でひねりつぶして中味だけを落とすのである。
木のしたでは、回収係がいてセッセ、セッセと予め用意した袋に回収。頃合いを見てドロン!(後はご想像の通りである)
次に「松茸」であるが、これは少人数で行う。この頃は学校の裏手の山まで「松茸」が生えていた程、一寸奥深い山まで行くと
「松茸」が群生していた。田舎では、このような状況であったが、これが都会では高価な価格で売れていたのだろうか?
日本人特有の根性か一戸建ての家に必ず塀が有るように、「ここからここまでは俺の土地じゃ!」みたいに、全く測量した訳でもないのに、山の上から下に向けて白いロープで陣地を決めていた。(広い山の事、ちょいとどかせば一坪や二坪は直ぐに陣地が変わるのに......。何とも言えない、了見の狭い、日本人独特の島国根性がここにも表れて醜いんだろう!)
そんな状況の元で、それを採りに行くには少々の勇気を必要とした。先ず手慣れた飼い犬を連れて山の下で見張りをさせる。(相手は人間の見張りであるが悠長なもので、時間にならないと見張りに廻って来ないのである。人が寄ってきたら犬は当然ながら「ワン!ワン!」と吠える。この鳴き声が逃げる合図となるのであるし、もし追っかけられても勾配のある山の中のこと、足場が悪いので子供の素早さに大人は負けるのである。)
いざ、山の中に入って獲物の「松茸」を探すのだが、時間との戦いであって事を素早く進めねばならない。
「松茸」などは菌で群生するから、1本見つけたら「シメタ!」周囲にはワンサと群生している。(それこそ根こそぎである)
一度、この手口で二人でナップサックに4袋いっぱい採った事があって、翌日学校に持っていって放課後に収穫の報告と級友に配布である。(本物の義賊ネズミ小僧もこんな気持ちだったろうか?)
次に「西瓜」、これが一番面白かった。事の決行は夜中である。
これは数人で徒党を組んでの作業であるが、何と言っても真っ暗闇の中での作業でもあり、子供なりに怖さも半分手伝って、一番スリルがあった。
この作業は前述の「栗泥棒」より綿密な計画と、チームワークを必要とする。
「西瓜畑」には、畝(凹凸)があり、そのへこんだ部分に、採取係から回収係までの間を数人が一列に並んで寝っ転がるのである。
そして採取係がもぎ取った「西瓜」を順次にお腹の上を転がして回収係までリレーするのである。
凹凸のへこんだ所に、数人の子供が並んで寝っ転がっていても、よほど夜目に明るくなければ判らないのであるが、もしバレたら始末が悪い。何と言っても体制が悪いし足場が柔らかいので、必ず逃げ遅れるのが出るからである。
家に帰れば田舎のこと「西瓜」なんて当たり前のように有るのだが、それにも増して、このスリルがたまらないのである。
(暗闇の中で徒党を組んで一生懸命やってる仕草を、今、思い出しても傑作であったと思う)
次に「桃」であるが、これは見事に失敗した。大人でも飛び越せない格子状の柵に畑全体が囲まれていて、出入り口は一カ所だった。
忍び込んだまでは良かったが、途中で発見されて、こともあろうに警察に通報されてしまった。
コッテリと絞られたが、泥棒を捕まえてみれば村内の子供ばかりで、叱られたり親が謝ったりで事は解決したような記憶である。

それから、未だある未だある、この頃「銃」に興味を持ったことがあって、友達の家から「空気銃」を持ち出して毎日一生懸命に練習をした。はっきりと記憶しているのは、前述に出てくる「花子おばさん」の家の窓ガラスを狙って、競争で腕試し。
何と言っても空気銃の弾は小さいし威力も弱いので、ガラスにピシッ!と傷が走る程度であるが、格好の標的であった。
次に、狙ったのが「スズメ」であるが、標的が小さくてラチががあかない。
ならば「鳩」である。これは大きくて当たっても空気銃の弾などはじき返してしまうので、これを一生懸命に次の標的にした。
とある日、屋根にとまって羽を休めている「鳩」命中した所、屋根を転がって「鳩」が落ちてきた。
よほど当たり所が悪かったのであろう。早速「鳩」を見に行ったら、何と「伝書鳩」で足に「書簡」を付けているではないか、これには友達と真っ青になり、すぐさま協議した結果、近くの河原に行って死骸を埋めてしまった。(暫くは、子供ながらに不安の日々が続いたが、時と共に忘れ去ってしまった。)

次に、一度だけ卒業間際に「集団での大喧嘩」騒動があった。
こちらは、二人、相手は10人近くだったと思う。たわいもない理由だったと思うが、それは凄まじい殴り合いの喧嘩だった。
素手の喧嘩だったが、少々痛い思いはしたが、殆ど無傷、相手は口の中まで血だらけの凄まじい喧嘩だったが、取り敢えずは勝利の軍配は、こちらに上がった。(私の相棒がとにかく強かったし、場数を積んでいて喧嘩のコツを掴んでいた。何と、この乱闘の後には、お互いにとても仲良くなったものだ。)

最後に、とてつもない事をしてしまった記憶を残すことにした。
その日は、授業参観日だった。誰が言い出しっぺか覚えていないが自分では無い事は、はっきり断言できる。
授業の内容は、「黒パン」というあだ名の教諭の英語の授業参観であった。
要するに、「この授業をボイコットしよう!」という事だった。それも5限目で午後一番の授業だった。
高校受験を控えての「補講授業」だったと思う。当時、補講まで受けて勉強したくなかったので、全学年400人中で2人だけ受けなかった。「自分で勉強しますから.....」を」理由に受講しなかった中の1人であったので、自分自身はさほど何も考えなかった。
お昼の給食の後、男子生徒一人残らず、こっそりと下校してしまったのである。
それを知らない親は、我が子の勉強振りを勾配の強い坂を上って、授業参観に来たが、探せど我が子はいない、そして男子生徒は一人としていないのである。(これには、当の先生も、女生徒も、父兄もビックリだったと思う)
案の定、翌日校内放送で呼び出しを受け、男子生徒全員職員室前の廊下に並ばされて、三宅先生から「全員歯を食いしばれ!」である。
凄まじい勢いで男子生徒25人位だったろうか、往復ビンタを食らった。三宅先生に取れば同僚の「黒パン先生」をこけにした我々への鉄槌であったと思うが、一番心を痛めたのは「黒パン先生」だったと思う。(ただただ反省!であった。)
理由はともあれ、現在の学校現場で、これがあったら校長も三宅先生も教育委員会に呼びだしされ、謝罪である。(生徒に暴力を奮ったという理由で.................。)
「歯を食いしばれ!」から有無も言わさずの鉄拳で、脳震盪を起こしそうな程痛かった記憶があるが、今になって思うのは「良かった!」である。
授業を台無しにした事よりも、一人の人間として「黒パン先生」の心をズタズタに引き裂くほど痛めた事への怒りの鉄拳であったと同時に、教師として生徒に人間として本当に大切な事を教えようとの鉄拳であったと思う。(今では、この時の事を反省もし、心から感謝している。)

他にも一杯想い出はあるが、近くなれば近くなるほど記憶は新しく、書き出せばキリが無い。
いよいよ「高校時代」の想い出に入って行くが、クラブ活動一筋だったので、それ以外の私の一面を記憶の形で紹介させて頂こうと思っている。

高校時代の記憶をたどって見ると....

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hunter 2012-6-10 17:54
いよいよ今日から一年生!遅刻をしないように早起きして登校!
中学後半から電車通学は馴れているもののやはり一年生は一年生、鵜沼と言う田舎から岐阜市と言う大都会への移動である。
無事に学校に着けるか心配で心配でたまらなかった。「新鵜沼」から電車に乗車して「新岐阜」に到着!いよいよ初めてのバス通学の経験である。バス停まで少し歩いていよいよ乗換であるが「加納方面」は幾つか路線があるようである。「南陽町加納高校前」で下車するのは入学試験の時に二才年上の従兄弟に連れられて来たので判っているが・・・・・・、「さぁ・・・・どのバス?」加納方面には他にもたくさん高校があるようで学生が一杯だった。
が・・・・、加納高校の学生はすぐに判った。この頃、岐阜県内で男子学生の長髪を認めていた学校は我が高校のみでバス停に溜まった通学生の中でも一際格好良くて、「見~つけっ!」で、後はこの学生の後を付いて行けば学校にたどり着ける。いかにも新入生の、それも田舎物らしい判断ではあったが反対を装って岐阜市内に住む通学生のように「岐阜市内のどこでも一人で行けるぞ・・・・」らしく平静を装って行動したものだ。
こうして無事にバスに乗り込み一路学校までとなるのであるが、そこは田舎物の一年生、バス停のたびに周りを見渡して「加納高校の学生は未だ乗っている・・・・未だ乗ってればいいな・・・・」、なかなか平静を装うのも大変で内心は気が気でなかったものだ。
ようやく「南陽町加納高校前」に付いた。(もうここまで来れば・・・・)
つい先程までの穏やかでなかった気持ちとは打って変わって、毎日バス通学をしている学生の様にバスのステップを降りるのも軽やかに、それも落ち着いて「運転手さんご苦労さん・・・」とも言わんばかりの平静さをもって降り立った。(後は徒歩50メートル、もう絶対に遅刻は無い・・・やった~!)
学校の前の「二中堂」と言う本屋さんの前の東門から詰め襟をきちんとたてて颯爽と一年生初日の登校であったのを覚えている。それが何と・・・・!。
「お早う御座います、どうぞ!」(ムー、、、、、)上級生のお出迎えである。吹奏楽の作品に「立派な青年」と言うのがあるが、これには参ったなぁ~。
いかにも長髪を許される学校だけあって、新入生を迎える先輩学生も良く出来ているなぁ~・・・・・と、周りを見渡してみたが出迎えを受けているのは自分だけ!エッ?(やけに先輩達がペコペコしてるではないか・・・・・?よく見たらこの出迎えの先輩達、加納高校の学生にしては一寸ネジが外れた風にやわらかい態度ではないか・・・・、、、、、)
おまけに、「○○さんに宜しくお伝え下さい!」などと従兄弟の名前を挙げて挨拶をして来るのである。
暫く考えて見たがその理由はすぐにわかった(この間、コンマ数秒!!)。とっさに「あぁ・・・・ハィッ・・・・・」などと返事して校舎の中に・・・・・・・・。

と言う出迎えを受けて、校舎に入り先ずは自分の学級に入った。自分の席は・・・・。あぁ~有った有った。
丁度、教室の中央に自分の席があった事を記憶している。(ど真ん中であった。これが本当にいまいましい場所になろうとは思いもしなかったが・・・・・)
高校生初めての授業は「英語」であった。先生が教室に入って来て教壇に立った。最初の授業開始で緊張して教室内はシーンとしていた。
黒板に「青木」と書いて先生の自己紹介があった。新任の先生で青木先生も一年生だった。若くて背が高く格好の良い先生だった。
ここまでは良かったが、悲劇はここから始まった・・・・・・・。
「みんな勉強して来たと思うが教科書の○ページを開いて・・・」から始まって
「○○この部分を訳して・・・・」
何と、一年生最初の授業で、最初に指名されたのである。
英語は余り好きでもなかったが、苦手と言うほどのものではなかった。一応は、初日の授業科目の予習もしてあった。
「ハイッ!」と元気の良い答えをして一気に英文を訳した。すると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「予習をしてきたか!全くなっとらん!立っとレ・・・・・・・・・・・・!」である。
ちゃんと予習もしてきたし何で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?!
それも最初の授業でよりによって自分が最初に立たされて・・・・・
教室のど真ん中で、それも90%が女子学生ばかりの中で・・・・・・・
この日から「英語「が大嫌いになってしまった。(田舎から出てきた純情な一年生にとっては凄いショックだった・・・・。当然、この先生も大嫌い!になってしまった。)
このお陰で大嫌いな科目の一番が「英語」になった訳で、全く都合の悪いことにこの当時「英語」は大学入試の必須だったので後に困ることになる。と言う悪夢の恥ずかしい記念の初日を終えて、一夜明けて何もなかったかの様に通学列車に、そして通学バスにと単調な高校生活が始まった。

この後に、この学校を選んだ理由のハンドボールへの初心をいとも簡単に忘れて吹奏楽クラブに入部して「吹奏楽・命!」の高校生活をおくるのだが・・・・・、

父親から道楽で学校に行かせるのでは無い。なんて普通科に進学をしたのだが根っから音楽とか美術が好きだった様で
音楽は吹奏楽クラブで、そして選考科目というのがあって、そちらは「美術」を選考した。(確か音楽も有ったようだが・・・)
前述のように風光明媚な環境に恵まれ小さい頃から親父に連れられて写生をしてきたし、高校進学の際にも美術科を薦められた位で絵心は持っていた。
ある時、クールベの「波」を模写して学校に持っていき美術の時間に提出したら主任の先生で秋山先生と言う日展の選考委員を務めていた先生から
「長いこと普通科の生徒の絵も見てるが、こんな上手な子は初めて・・・」と言われ気を良くし油絵にも挑戦してみたかったが画材が結構、高価でもあったので断念し、秋山先生の専門の水彩画に魅入ったこともあって一生懸命そのテクニックを絵に食い入るように見ては探求した。
とても素晴らしい構図と絵筆の使い方は勉強になったし、今でもCDジャケットのデザインなどに於いて役立っているかと思っている。

こうして、大嫌いな科目が「英語」、好きな科目が「美術」とバランス良くなったのだが良く見てみると本当に好対照な科目となったものだ。
このあたりで学業成績に触れて見たい。自分でも「面白いなぁ~、どうなってんだろう~。」と思うほど不思議な結果になっている。
「現代国語」は学年で中の下、「漢文・古文」は学年でも常にベスト3
「英語」は学年のワースト3(このワースト振りは並大抵では無く、高校3年の卒業試験では追試に次ぐ追試、そして最後の追試で先生が勝手に書いてようやくOK!と言う有様であった。高校最初の授業が最後まで祟った結果である。)
「数学」では学年の中の下、「物理」は大体ベスト10(一度はトップに)
「世界史」とか「日本史」などは大体学年の上位をキープ
「体育」はハンドボールの選手までやったのに駄目だがマラソン等の持久力科目は学年の上位
「美術」、「音楽」、「技術」は、お得意科目だった。
これは、本当にどう分析するか難しいところだが答えは簡単!
ようは勉強が嫌いだった!産まれてからの生活体験の積み重ねから得て知識とか、好きな事には没頭したりだけで過ごした結果である。
勝手気ままに好きな高校生活を過ごした結果であるが、これで良かったと思っている。(沢山の友達も出来た事だし・・・・・)

さて、学業の方はさて於いて小さいときから友達と徒党を組んで遊ぶのが好きだった性格は高校でも引き継がれていた。
その様子と、相変わらずのデタラメ生活を吐露しよう。

その紹介は前述の朝の登校から始まる。
いつの日からかは記憶にないが2年生頃かなぁ~、朝、学校の門を入ると決まって「お早う御座います!どうぞ!」は代わり映えしないが、
「どうぞ!」が変わってきた。「どうぞ!」と言って何と手が差し出される様になり、その手のひらには、いつも「太陽」ならぬ「煙草」が乗っていた。
朝が駄目なら昼休みにでも届けると言った調子である。いつも決まって、ショートホープだった様に記憶しているが・・・・・。
「あぁ・・・ハイッ・・・・・・」と、力げ無く答えていたのがいつしか「オゥ!ご苦労さん!」に変わっていった。
アルコールは何とも早くから経験していたが、煙草は高校一年頃から吸い始めていた。
専ら、ロングホープと言う銘柄が多く、時にハイライトなど吸っていた。初めは両親も知らなくて吸い残しの煙草はタンスに隠しておいたが、いつしか煙草を吸っている現場を見つけられてしまい暫くは家の中で吸うことができず、専ら外での喫煙が多くなってしまった。
家の近くの犬山橋は格好の喫煙所だった。夜景を見ながら気持ちよく吸えたものだ。人の気配を感じたら指から煙草を離せば良い!
そのまま欄干の上から煙草は自動消火器ならぬ木曽川に真っ逆さまである。(これは本当に具合の良い喫煙所だった)
そんな喫煙癖を知ってかどうかは判らないが毎日の差し入れが「煙草」になった。どうせ持ってくるなら20本入りのロングホープが有り難かったが・・・・・・。

この頃になると段々と横着なもので、遂にクラブでもである。
この学校の吹奏楽クラブには部室が無くて体育館のステージを利用していた。
体育系のクラブと共用であって、吹奏楽部の練習の邪魔にならないようボールが飛んでも良いように、いつもステージの緞帳が降ろされていて、そこでの練習だった。(若い高校生の溌剌とした元気のある掛け声と、床に弾むボールの音が邪魔だったが・・・・・・・・・・・)
また、この緞帳が良かった。周囲から見られないのだから・・・・・・・・・・・・。
何と、指揮者におさまった頃には、私が喫煙する事を皆が知っていたし横着なもので、指揮台の楽譜を置く部分に灰皿を置いて棒を振っていた。

小さい頃から悪ガキを作る、「類は類を呼ぶ」かも知れないが、ここでも何故か他校の生徒、結構愛知県の高校に通学している仲間が多いのだが、、、、、
朝、家を出るときに安物のウイスキーをコップに一杯位飲んでの通学。はばかって列車の客室には乗らず、いつも車両連結部で煙草を吸っての通学だった。
時には、途中から乗り込む愛知県通学生と一緒に煙草を吸いながら、時には密かにくれる当時流行った○○○ナールと言うものを興味半分で服引したものだ。
学校に到着する頃には、すっかり出来上っていて午前中はボー・・・としていて、放課の時間、つまりクラブの時間になる頃には、、いつもシャキンとしていて
文字通りクラブ生活が高校へ行く理由と価値観が変わっていた。
ある時には、電車で一緒になった野球部の○○君と「オイッ!次の駅で降りよう!」なんて調子で、どこかの草むらに学生カバンを放り出して、オートバイに二人乗りで白川まで遠乗り、途中お巡りさんに止められて「今日は学校は休みなんです」と嘘をいって遊んでからクラブに間に合うよう登校なんて事も・・・・・・・・・・。